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柴又帝釈天について
柴又帝釈天縁起
開山
当山は経栄山題経寺(日蓮宗)といいます。寛永年間(1629年)に開基され、開山上人は下総中山法華経寺第十九世・禅那院日忠上人です。その弟子である第二世題経院日栄上人が、実際の開基となりました。
板本尊の出現
当山には、昔より日蓮聖人御親刻と伝えられる帝釈天のご本尊が安置されていましたが、江戸中期に一時所在不明となっていました。
安永年間に至り、当山第九世亨貞院日敬(こうていいんにちきょう)上人は、お堂の荒廃を嘆き、その復興を計りました。
すると安永八年(1779年)の春、本堂改修中に梁の上からこのご本尊が見つかり、ついにご本尊の再来という大きな法悦を得ることができました。その吉日が庚申(かのえさる)の日であったことが、当山と庚申との結縁の始まりとなったのです。
日敬上人は、自ら誌した略縁起の中で次のように述べています。
「本堂棟上より出現した本尊は、長さ二尺五寸、 幅一尺五寸、厚さ五分の板で、形に似ずまことに重く、且つ堅く媒塵に汚れて、よく判らなかったが、水でよく清めたところ、片面は日蓮聖人の真刻、病即消滅本尊の形木、片面は帝釈天王の像である。
これこそ疑うべくもなく、当寺相伝の祈祷本尊である。」
日敬上人は、この出来事に非常な驚きと悦びを記されています。
板本尊々形
この御本尊の片面には、中央に「南無妙法蓮華経」のお題目が記され、その両脇には法華経・薬王品の一節である「この経はこれ閻浮提《仏教で全世界のことを言う》の人の病の良薬なり、 もし人病あらんに、この経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」という経文が彫られています。
もう一方の面には、右手に剣を持ち、左手を開いた忿怒のお姿の帝釈天御本尊が刻まれています。
これは悪魔降伏のお姿であり、すなわち私たちが仏の教えを信じ、従うならば、もし病難や火難、その他あらゆる災難に遭遇したとしても、帝釈天が必ず守護し、悪魔を退散させてくださるという意味を表しています。
不思議
世は安永九年で終わり、次いで天明の時代となり、やがてあの大飢饉と大疫が蔓延した天明三年を迎えました日敬上人は、「災難に遭って苦しむ人々を救うのは今である」との強い思いを抱き、この板本尊を自ら背負って江戸をはじめ下総国の各地を巡られました。
そして、本尊から感得した一粒符を多くの病者に施し、本尊を拝ませて、不思議な御利益を授けられたと伝えられています。
宵庚申
こうして江戸を中心とした帝釈天信仰が高まり、特に江戸時代に盛んであった「庚申待ち」の信仰と結びつき、「宵庚申」の参詣が盛んになりました。
明治初期の風俗誌には、次のように記されています。『庚申の信仰に関連して信ぜらるるものに、南葛飾郡柴又の帝釈天がある。 帝釈天はインドの婆羅門教の神で、後、仏法守護の神となったが、支那の風俗より出た庚申とは何の関係もない、 此の御本尊は庚申の日に出現したもので、以来庚申の日を縁日として東京方面から小梅曳舟庚申を経て、 暗い田圃路を三々五々連立って参り、
知る人も知らない人も途中で遇えば、必ずお互いにお早う、お早う、と挨拶していく有様は昔の質朴な風情を見るようである。』
見渡す限りの葛飾の田園には提灯の灯が続き、それが小梅・曳舟から四ツ木、立石を経て曲金(高砂)の渡しを渡り柴又へ至る道、または新宿を通って柴又へ向かう二筋の道に揺れ、とても賑やかであったと伝えられています。その途中で売られた茶屋の草だんごは、今もなお続いています。
人々は帝釈天の本堂で一夜を過ごし、一番開帳を受け、庭先にあふれ出る御神水をいただいて家路についたのです。
開山
板本尊
板本尊々形
不思議
宵庚申
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